梅干

気づいたら長文になってたので、隠す。仕事はしないくせにこういうことはやるんだよなぁー、、、、、、、、、勉強しないで掃除してるのと全く一緒
その理由こそ人の底知れぬ欲望のせいなのかも。
あそこにもっと良さそうのものがある、あれが欲しい、手に入れた、遠いところにはもっと良いものがあるらしい、それを手に入れたい、それには他人が邪魔になる、切り捨ててしまえ、手に入れる、いつの間にか何かを失っている。
自分の持っているものだけでは満足できない自分。自分の手に入れたものには興味がなくなる自分。
しかし、「良いもの」を求めることが悪いことであるかと問われれば、そうではない。悪くなるとすればソレを手に入れる手段、良いものを見定める本人の目。
突き詰めてしまえば良い種を残すための本能にすぎない。しかし、その本能をどう扱うかはその人次第。
比べる世界が嫌になったら、僕の場合は、比べる必要もないほど自分を高める他にはないと考えるだろう。自分の目指す頂点へ登っていけば、登ってきた経路にいた者のことなど気にかからなくなる。
今は、比べたところで一人の人の世界は別の人とは違っているからどうしようもない。と毎度毎度諦めることにしているけどね。人によって頭の中の枠組み・価値観は全然違う、見えている物の色だって、精密に同じとは言えない。そんな不安定な中で、何を基準にして比べられようものか、、、、、、、、
だから、自分にとって大事なものを大事に扱えばそれでいい。と、今はそう思う。
ただ、大事なものが何であるかを見誤ったそのときが、怖くてたまらない。

だからなのかは分からないが、僕は「盲従」が嫌い。他人が良いと言ったからといって、それが本当に良いものであるかどうかは、実際に自分が見定めねば分かりようもないこと。
自分の中でその行動の意義が感じられねば、その行動を成す意味はない。だからワタシは「理由」を「意義」を求めたくなる。「どうして?」「何のために?」と、、、、、、、
別に、何もしたくないわけではない。どうせやるからには、理由と意義を十分に理解した上で実行したいと、ただそう願うだけ。しかし、これほど贅沢なことはないな、、、、、、今この時に分かった、ワタシはとんだ贅沢を望んでいるのだと。それならば、誰かに文句を言われても仕方がないのかもしれない

こんな事、周囲の人間に言ったら「悟ったようなことを、、、」とか「達観したようなことを、、、、」とか「おっさんくさい」とか色々言われそうだが、別段ドエライ人間になりたくてこういう風になったわけではなく、ただ自分の生きたいように生きてきただけ、人より少し上にいたかっただけ、生きることに必死だっただけ、、、、、、、、

僕だってみんなのように、まっすぐに生き抜いてみたかった。恋人がどうとか、昨日のテレビがどうとか、部活が大変だとか、そういう話を普通にできる世界を生きたかった。
でも今更それは叶わない、叶えようとも思えない。今は黙って耐えるのみ、周りが人と人との違いを認めてくれる階層に達するまでは、ひたすらに耐えるのみ。
めげず、挫けず、落ち込まず、怒らず、悲しまず、ただひたすら来るべき日を、来るべき時を、するべき備えをして、待つほかにはない。