生想

僕は、自分はどこの位置にいるんだろうと、ふと思うときがある。
過去をたどってみると、様々な位置に自分はいた。ある時は芸達者でモテる人、ある時は間違った環境適応をした人、ある時は人間の遠慮のなさに苦悩する人、ある時は愛と勇気がつり合っていなかった人、ある時は一途に思い続ける人、ある時は一人物思いに耽る人、ある時は大音量でロックを聞く人、ある時はぬいぐるみを愛で 共に生活する人、ある時は動物と共生する人、ある時は少女マンガを読む人、ある時は少年マンガを読む人、ある時はゲームを極める人、ある時はアニメにハマる人、ある時はアニラジを聞く人、ある時はラジオに投稿する人、ある時はラジオを放送する人、ある時はマイナータレントを応援する人、ある時はマイナータレントを憎む人、ある時はHIPHOPを好きな人、ある時はキンキキッズが好きな人、ある時はキンキキッズがトラウマな人、ある時は野菜が嫌いな人、ある時はなんでも食べる人、ある時は女性に幻滅する人、ある時は女性を笑わせて喜ぶ人、ある時は女性に拒絶されて絶望する人、ある時は悪にあこがれる人、ある時は善に固執する人、ある時は悪を模倣する人、ある時は全てを滅しようとする人、ある時は全てを捨てようとする人、ある時は全てを作り出そうとする人、ある時は喪男にあこがれる人、ある時は社会を風刺する人、ある時は社会から離れようとする人、ある時は価値観を離れた世界に行こうとする人、ある時は仲間達と歩む人、ある時は仲間を集める人、ある時は偶像的存在にすがる人、ある時は仲間を嫌い憎む人、ある時は女を惑わす人、ある時は女を叩き落す人、ある時はひたすら禁じる人、ある時は何もない人。

考えてみると色んな時代に色んな人間として僕は生きている。そして、こうあるべきだっていう人生の方針もいつも違う。だから僕は思う、こう生きればいい、とかこう生きればちゃんとした人間になれる、とかそんなもんは無意味だし、「自分」ってものの妨げになりかねない。
今自分が一番楽しいと思える位置にいて、今自分が一番正しいと思うことをして、今一番満足できることをしていけばそれで自然と自分は自分として固定されていく。他人に揺るがされない自分として
そーやってちゃんと自分の意志で動いていけば、結果は自然とついてくる。自分が間違っていたと思える結果や、自分が正しかったと思える結果もある。その結果を受けて考えるのもまた「自分」。
なにも他人に自分の行き方を決めてもらう義理も必要もない。「こう生きるべきだ」なんてのは所詮その人の理論なんだから、それに賛同するならそうすればいいし反対するならそうしなければいいけど、それが確実で確定的なことだとは思っちゃいけない。一人の人間は一人の価値観でしかない、それは「自分」だってそうだ。絶対的価値になれるわけじゃない相対的な存在であるだけだ。
でも、それでいいんだ、それがいいんだ。無理やり別人になる必要なんて本来微塵も存在しない。それでワガママな人になったって、自分がそれでいいって色々考えてもそう思えるんだったら僕はそれだっていいと思う。それに反目する人が現れて、間違ってるのかと思ったら、もう一回考えて自分で決めればいい。
人に嫌われちゃいけないなんてことはないし、人に好かれちゃいけないなんてこともない。邪険にされたって自分が楽しいんだったら別にそれでいいんだよ

僕にとって「自分をもつ」ってことはそういうことなんだ。だから、これからも僕は色んな場所に行く、色んな位置を渡る、その末にそのとき一番いいと思える所にいれる人間になれたら、それが僕にとって最高の幸せだ。