受験生の自覚

よく、同学年の人のブログなんか見ると、「受験生なのに、何やってるんだろう」って記述をよく見る。
お友達のEz8にゃんもC-Lきゅんもブログ閉じたりしてるし、サガラさんも受験生なのにー。ってよく書いていらっしゃる

それ見る度に、オイラってこういうこと全然思わないよなぁー。と、自分と他人との違いを見せ付けられる気がする。

おいらは決定的に危機感とか使命感とかがない、確かに、最初から選択肢が一つだけという固定ルートで進んできてるってのも原因だし、基盤がしっかりしてなくて、そっちのほうが心配ってのもある。
でも、おそらく一番アカンのが、別にやらなくてもある程度はできちゃうっていう、ヘンテコな脳構造のせいなんだろうな
で、少しやればできるようになるだろう。って見積もってる、でも実際はそうじゃない。いざやりだしてみると、全然できやしない。
でもって、その不出来さをみるのがこわかったり、やってもできないから意味がないと捨ててる部分も多分ある。

それに、自分から遊びを切り離せない大きな理由がある。
生きる意味とか希望とか考えてた中学時代に、決めたコトがある。自分が生きる為には、楽しいこととか喜びとか幸せとかが必要だ。
だから、暇があればそれらを求め、苦しいことからは全力疾走で逃げる。それも100mを8秒で走るくらいに、、、、、

しかし、この時期そんなことも言っていられないようだ、センターまであと二ヶ月を切る。そんな中、今の成績のままではおそらく不合格は確実。
なにより数学の基本要素は身についていないし、地歴・理科はほとんど選択肢を勘で選んでいる状態なのだ。
そんな状態のままでは、確実に落ちる。

たしかにワタシは国語と英語が平均以上にできている、だがしかし、ほかが足をひっぱっていてはそれが霞んでしまう。そんなことがあってはならない

同じく中学時代に決めたコトに「汚点は一つも作らない」というものがあったじゃないか。それを忘れたが為に、夏の終わりにあんな出来事があった。あれは自ら自分の理念を曲げるという汚点を作ったがために起きたこと。
だから、今回こそは汚点を作ってはいけない。失敗が許される状況ではない。

目の前では、下を向きたくなるような会話を両親がしている。そして今まさにワタシは我慢に我慢を重ねている。ここまで我慢をしているのだから、勉強しなくてはその我慢すらも意味がなくなる。

自分の過去の行動を意味あるモノとする為、自分の苦労に報いる為に、ボクは自分を幸せにするために頑張らなくてはならない。頑張れば、過去の自分に報いることができる。あの屈辱の日々も、あの絶望の瞬間も、あの空虚な時間も、全て救うことができる。苦難はもぅ、そう多くはない。あといくつかの苦難を指折り数えてこなすしかない。

切り替えろ、今からお前は、あの自分に戻る。全てを投げ捨て断ち切って、ひたすら打ち込んだあの自分に戻る。
さぁ、本を持て、字を読め、脳をフル回転させろ。怠けている暇はない。呆けている暇はない。現を抜かしている暇はない。

わたしは遊ぶ、目いっぱい遊ぶ、そして笑う、めいっぱい笑う、そして全力で習得していく。ワタシができなかったことを、わたしがまだ覚えていないものを、全て習得する。

あの人が、向こうの世界で安らかでいられるように、自分の涙を価値ある涙にする為に、自らの未来の土台を作るために